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雨下のブログ

ブログ初心者。手探り状態。

褒められて育ったけどなんとなく自己肯定感が低い件について

 自己肯定感は褒められて育つらしい。

 かくいう私も結構褒められて育ったほうだ。

 テストの点が良ければ「すごい!」と褒められ、通信簿に先生の賞賛の言葉が並べば「えらい!」と感激された。

 褒められること自体は嬉しかった。実際そのおかげである程度の自己肯定感が育ったように思う。

 ただ、褒められたのは良い結果が出たときだった。

 別にテストで悪い点を取ったからといって、人格を否定されたり激しく罵倒されたことは一切ない。特に褒められることもないだけで。

 良い結果が出たときは必ず褒められた。

 しかし、だからといって「褒められるために頑張ろう」という気は一切起きなかった。その時点で頑張ることは当たり前になっていたからだ。

 あるとき大して勉強もしていないテストで良い点を取った。やっぱり「すごい!」と褒められた。

 後になって考えると、私は板書をノートにきちんと写したり、宿題を必ず全部こなしたり、テスト期間前に集中的に勉強したりと、それなりの努力をしていた。しかし、私の中でそんなことをするのは当たり前になっていて、努力と呼べる範疇に入っていなかった。

 そして大して努力もしていないテストで、良い点を取り、褒められた。

 このとき、私は結果がすべてであることに気がついた。

 良い結果が出たから褒められたわけであって、私が頑張ったから褒められたわけではないのだと。

 私の中で努力が無価値になった瞬間だった。

 

 以来、私は結果に拘るようになった。

 努力の過程は関係ない。結果のみが評価されるのだ。

 でも、どこかでずっと努力を評価されたいと思っていた。

 自分がこんなに頑張ったおかげで、こんなに良い結果が出せたのだと知ってほしかった。その一方で「努力に価値はない」と思っていたから、わざわざ努力していることをアピールすることができなかった。

 結局努力は誰にも知られず、結果のみが見られ、評価された。

 努力すれば大抵の場合結果はついてきた。高校までの勉強ではそれは顕著だった。

 しかし大人に近づくにつれ、努力してるつもりでも結果が出ないことが増えていった。

 私は焦っていた。結果が出なければどれだけ努力しても意味がない。良い結果が出せなければ私は評価されない。愛されない。いつしかそんな強迫観念に苛まれていった。

 

 

 

 

 

 「生きているだけでいい」「それだけでいい」

 

 そう言われたのは「死にたい」と口に出すようになってからだった。

 

 私は納得がいかなかった。結果を残せなければ自分に価値はない。ずっとそう思っていた。

 

 「別に大した結果を残せなくてもいい」と思えるようになったのはここ最近のことだった。

 そう思わないといつまでも自分に合格点をあげられなくて苦しいことに気付いたからだ。

 

 私はいまでは次の二つのことに気をつけている。

 

1.自分で当たり前だと思っていることを褒めること

 自分で当たり前だと思っていることが、冷静に考えると結構な努力に支えられていることに気付いた。なので些細なことでも自分をできるだけ褒めるようにしている。(口に出さなくても、脳内だけでもいい)

 例えば遅刻しない時刻に起きた、自分で一食分の食事を作った、など。

 また、自分で決めた一日のノルマが達成できなくても、ゼロでない限り、ほんの少しでも進んでいる限りそれで合格とする。

 

2.目標を低く設定すること

 これは1と表裏一体で、自分が夢見ている理想がとんでもなく高いことを認識することでもある。自分の実力と理想を高く考えすぎず、「自分なんて大したことないんだから、これだけやれれば万々歳」と思い切って目標値を下げまくる。すると無理なく目標が達成され、お手軽に達成感が得られる。達成感が得られると自信に繋がる。こうして目を見張るような結果が残せなくても、自己肯定感が育っていく。

 

 

 ネット上で時々自己肯定感が低い人の話を目にする。そういう人は大抵(私の観測範囲内に限り)親に虐待されていたり、子どものころから何度も人格を否定された過去があることが多かった。

 私は言うまでもなく親に恵まれた人間だ。よく褒められ、よく可愛がられた。

 なのになぜか自己肯定感が低かった。何をしても自分に満足できなかった。

 その原因はおそらく、「これだけ結果を残したから胸を張っていい」という条件付きの自己肯定だったからだ。

 

 理想を高く持ち、結果を残すことに執心するのも一つの生き方だと思う。そういう人にはいまだに憧れを抱く。

 ただ、自分を追いつめても楽しいことが何一つないなら、それはやめたほうがいい。

 小さく見えることでも自分を肯定したほうが、ずっと楽しく生きられるから。

もしロミオとジュリエットが死ぬことなくその後幸せな生活を送ったとしたら

ロミオとジュリエット

 

 ざっくり言うと、敵対する家の息子と娘が恋に落ちたあげく、駆け落ちに失敗して二人とも死んじゃう話です。

 ざっくり過ぎますね。

 

 それは置いとくとして、あなたは『もし』と考えたことはないでしょうか。

 

「もしロミオとジュリエットが、上手く駆け落ちに成功しその後二人で幸せな生活を始めたら」

 

 どうなっていたでしょう?

 

 それを舞台を日本に置き換えて描いたのが、

 

 

三毛猫ホームズの駆け落ち」

 

 

 です。

 

 はい。この記事は赤川次郎が生み出した猫探偵小説に関する記事です。

 早速行きましょう。

 

※以下、事件の真相、動機、犯人のネタバレがあります。

 嫌だという方はここでブラウザバックを推奨します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三毛猫ホームズの駆け落ち」は、とある田舎町の有力者の家の息子と娘が駆け落ちする場面から始まります。二人は大雨の日、氾濫した川の濁流に身を投げ、生死不明のまま十二年の歳月が流れました。

 舞台は東京に移り、町の人間が駆け落ちした二人を探しに来ますが、ひょんなところから「三毛猫ホームズ」シリーズのレギュラー、片山晴美とその兄である刑事、片山義太郎が駆け落ちした二人だと勘違いされてしまいます。

 それをきっかけに、三毛猫のホームズと片山兄妹たちは深く事件に関わっていくのですが・・・・・・。

 

 話のあらすじはこれくらいにして、メインの話に行きましょう。

 

 十二年前に駆け落ちした二人、片岡家の長男、片岡義太郎と山波家の長女、山波晴美は(もう言わなくてもわかると思いますが、勘違いの原因は下の名前が同じだったからです。苗字は「片」岡と「山」波から取って「片山」ではないか、と・・・・・・)

 

 じつは、駆け落ちした後に別れていました。

 

 ここで、「えー!?」と思う人、「やっぱりね」と思う人、千差万別かと思います。

 駆け落ちした当時、二人は十七歳と十四歳という若さで、家も故郷も安定した豊かな生活も投げ打って、恋を取りました。

 しかし人の心は変わるものです。熱情が激しく燃え上がるほど、一旦その温度が下がったときの失望感は大きなものでしょう。

 また、架空の物語であれば「二人は手を取り合い、いつまでも幸せに暮らしましたとさ、おしまい」で、「お終い」にできます。しかし現実であれば、窮屈なしがらみから逃れた後も生活は続いていくのです。

 二人は現実の生活の苦労に負けました。

 最初に音を上げたのは義太郎の方です。いままでとは違うお金に苦労する生活、それに反比例するような晴美の重すぎる愛情。ついに義太郎は他の女性と関係を持ち、子どもができたことで別れを切り出します。晴美は晴美で包丁を持ち出し、「あなたを殺して自分も死ぬ」と言い出しました。ここまで来ると意地ですね。そんな男捨ててさっさと別れるべきです。

 結局二人は別れ(もちろん、生きたまま)その後、それぞれに幸せな家庭を築きました。

 ロマンチックな禁断の恋物語は生々しい破局を迎えましたが、傷つきながらも二人はささやかな幸せを手に入れました。

 

 しかしそうは問屋がおろさないのが怖いところ。

 

 二人の故郷で、それぞれの家の跡取り候補だった青年が二人とも死亡したことにより、遺産相続を廻る醜い陰謀が動き始めます。

 二つの家の対立、莫大な財産の行方。

 大勢の人を巻き込む騒動から、ある一人の人間の心にとてつもない欲望の芽が吹き出します。

 

 「上手くすれば、両方の家の財産を手に入れられる」と。

 

 その人物は苦しい生活に嫌気が差し、過去の贅沢な生活を忘れられませんでした。

 

 そう、この話で起こる一連の殺人事件の犯人は、過去に晴美と駆け落ちした片岡義太郎です。

 

 作者の赤川次郎は、事件後片山刑事に「金持ちの坊ちゃんの限界だったのかな」(角川文庫、p.365)と言わせます。

 鬼ですね。

 

 要するに赤川次郎は「ロミオとジュリエット」の「もしもの続き」を描き、

 

「なんの覚悟もないお坊ちゃんが恋愛で生活投げてまともに生きていけるかよバーカ」

 

 と言ってるんですね。

 赤川次郎の作品群は読みやすい文体、軽妙なギャグを挟む会話、救いの感じられるラストに騙されそうになりますがその実かなり辛辣です。細やかな人物造形がえぐいのです。

 

 ちなみにかつて義太郎と駆け落ちした晴美は、義太郎の計略によって殺されかけたもののなんとか生き延びました。

 事件解決後、晴美は「あの人があんなふうになっていくのを止められなかった」と話します。

 人は変わります。年齢を重ね、環境が大きく変わり、知りもしなかった苦労を経験すればなおさらです。そんななか、過去に誓った想いを変わらず守り続けるのは非常に困難なことでしょう。義太郎が変わったことを責めるのも難しいものです。

 赤川作品は常に「人の弱さ」に焦点を当てています。

 だれもが心当たりのあるような「弱さ」を抱えた人間が数多く登場します。それゆえ人を傷つけ、傷つき、はては他者の命を奪ってしまうことさえも・・・・・・。

 しかしその描き方は、冷たく突き放すというよりも、むしろ愛しげに慈しんでいるように感じます。

 

 涙をこらえて「故郷には二度と帰らない」と告げる晴美に、主要キャラの三人、片山兄妹と友人の石津刑事はそれぞれ、

「女は強いなあ」

「女は哀れね」

「女はすてきですねえ」

 と口々に言うのです。

 かつて愛した男が墜ちていくのを見ることしかできなかった女性に、赤川はこんな言葉を贈るのです。

 

 赤川次郎が描いた「もしもの続き」は、突飛なようで生々しいほど現実的な破滅と再生の物語でした。

 ときには自身の熱情に、ときには生まれ持った宿命に、ときには己の弱さに翻弄されながらも、幸せを掴もうとした人たちの物語です。

 こちらの記事でご興味を持った方はぜひ「三毛猫ホームズの駆け落ち」または他の赤川次郎の作品を手にとってみてください。

 損はさせませんよ、たぶん。

 

 

 

※話が脇筋にそれるので書こうか迷ったのですが、追記的に書いておきます。

 作中晴美はナイフで刺され、生死の境をさ迷いますが、一命を取り留めます。

 しかし捜査陣の上層部、つまり片山刑事の上司たちはこれを利用し、「晴美は死亡した」という嘘の情報を伝えます。被害者が死亡したと知れば犯人が油断するという作戦です。(片山刑事にも嘘の情報が伝えられましたw)

 駆け落ちのために死んだと見せかけたジュリエットに通じる作戦ですね。ここにもオマージュした作品に対する遊び心が垣間見えます。