軒下から雨を眺める。

ため息を言葉に。

質問しないで人生を損した話をする

 私は質問をするのが大嫌いである。

 原因は小学生の頃、担任が「すぐに質問せず、自分の頭で考えなさい」と発言したせいだ。担任は、話を聞いていない生徒があとから同じような質問を重ねるのに辟易していたためにそう言ったのだが、当時の馬鹿正直だった私は、その言葉をのちの人生に多大な影響を及ぼすほど、真正面から受け止めてしまった。

 いまでも質問するのが億劫でしかたない。質問をして、「こんなこともわからないのか」と怒られる自分の姿が目に浮かぶ。質問の意図が相手に伝わらないことを想像して、および腰になる。なにより、「すぐ人に質問するのは、自分の頭で考えない馬鹿の証拠だ」という呪いじみた強迫観念が、ずっと私についてまわった。

 職場でも質問が苦手で、常に「これは間違ってるんじゃないか」「ここがわからない、でも聞けない」「そもそも自分がなにをわかってないかもいまいちわからない」といったどうしようもない状況に陥った。その頃は自分の強迫観念も、その原因もなんとなくわかっていたので(認めたくなかったが)、できるだけ質問することを避けないように意識した。だがしかし、いまだに質問することが嫌いである。

 そんな私が改めて「わからないことがあったらすぐ人に質問しよう」とおもう出来事があった。

 一年前、一人暮らしを始めた私は、テレビの接続に頭を悩ませていた。もともと借りた部屋にテレビを置くつもりはなかったが、急に知人から不要なテレビを譲り受けることになり、小さなせまい一人暮らしの部屋に一台のテレビがやってきた。

 初めての一人暮らしで、手につけることのほぼすべてが初体験だった私は、テレビを見られるようにするのにはどうすればいいのかも知らなかった。

 ので、ネットで調べた。

 どうでもいいが、ネットがある環境も、私の質問嫌いに拍車をかけている気がする。

 調べた結果、集合住宅の部屋の壁には、端子をはめこむ丸い穴があるのを知った。

 が、部屋の壁をくまなく探したら、その丸い穴がなかった。あったのは見たこともない、二つ並んだ黒い小さなでっぱりだった。このでっぱりが曲者だったのだが、この時の私はそれに気づくことはなかった。

 自分が借りた部屋に丸い穴を見つけられなかった私は、さらにネットで調べた。丸い穴がないということは、この集合住宅にテレビのアンテナがないということだ。

 私は、アンテナがない環境でテレビを見る方法を調べ始めた。

 調べてわかった方法はおもに三つ。

 ひとつはアンテナを取り付けること。もうひとつはネットでテレビのオプションを契約すること。さらにもうひとつは、ケーブルテレビを契約することだった。

 どの方法も工事費用がかかったり、月額使用料がかかったりと、それなりのお金がかかる方法だった。そして見る限り、とても面倒くさそうだった。

 私は憂鬱になった。調べた結果を放り出して、テレビを見るのを諦めようとさえおもった。ネットを契約したときにいっしょにテレビのオプションをつければよかったのだが、もともとはテレビを買うつもりがなかったので断っていたのだ。

 安い給料と生活費と相談し、悩んだ末に私はネットでテレビのオプションを追加できるか聞いてみることにした。この考えはわりと最初からあったのだが、私はとにかく人に質問するのが嫌いなので、できるかぎり質問するのを避けたかったのだ。

 午前中に思いついた考えを実行に移すと決めたときには、もう午後になっていた。質問するのが嫌すぎて行動が後手に回るのが私の悪癖であった。

 だがその質問をする前に、念のためもうひとつ別の質問を管理会社にすることを決めた。ネットでテレビを見る方法を調べたときに、こんな一文があったからだ。

「借りている物件がテレビを見られる環境かどうか、一度管理会社に確認しましょう」

 確認したほうがいいとわかっていたのだが、感覚的に嫌すぎてこれも避けていた。嫌すぎて午前から午後にかけて、管理会社に問い合わせるかどうか悶々と悩むほどだった。

 なにをどうしたら、人に聞かずに物事を解決できるかを考えるのも、私の根深い悪癖だった。

 意を決して、私は自分を奮い立たせて電話をかけた。

 管理会社にはすぐ繋がった。

「もしもし、あの、ひとつ確認したいのですが、このアパートって、テレビのアンテナないですよね……?」

 すると管理会社の方は、壁にある端子の穴を写真に撮って、メールで送ってほしいと言ってきた。丸い端子の穴がないので、私は例の、黒い二つのでっぱりを写真に撮り、メールで送った。

 そうしたら、こんな返事が返ってきた。

「F端子⇔フィーダー線変換アダプタというのを使えば、大丈夫ですよー」

 正体不明の二つのでっぱり、あれがじつは、テレビのアンテナに繋がる端子だったのだ。あとでわかったことだが、築三十年近い古いアパートだったので、壁の端子もそういった古い型のものだったらしい。管理会社さんいわく、いまの家電量販店では、その変換機はもうほとんど取り扱っていないので、ネットで購入するのがおすすめとのことだった。

 私は拍子抜けした。何時間もかかって調べたネットのオプションも、ケーブルテレビの契約も、アンテナの設置も、なにひとつ必要じゃなかった。私の頭を散々悩ませた月額料金の問題も、幻の敵と戦っていたかのように無意味だった。

 電話にかかった時間はせいぜい五分。私が人に聞かずに、自分の頭で考え、調べた結果無駄にした時間は、およそ三時間。

 私は人に質問しないことで、限りある人生のうちの貴重な三時間を無駄にした。

 これほど、はじめから人に質問しなかったことを後悔したことはなかった。

 だから、私は決めた。

 もう、質問することを怖がらないと。恥ずかしがらないと。

 どんなに生理的に、なんとなく嫌でも、できるかぎりすぐ、わからないことがあったら人に聞こうと。

 これ以上、人生の時間を損してなるものかと。

 以上が、馬鹿だった私の話でした。

 この記事を読んだあなたの時間が、どうか無駄な時間ではありませんように。

 

 だが顔も名前も覚えてない小学校の担任、あんたのことだけは絶対に許さないからな。

 

 

失くしもの備忘録

 失くしたものを探すときのコツみたいなものをメモ代わりに書いてみた。

 

1.同じところを二度探さない

 これが最初にして最大のミソ。人は無意識に同じ場所を何度もくりかえし探している。自分の記憶と勘に妙な自信を持っているせいだろう。その記憶と勘が通用しなくなっているから探し物が出てこないのだが。

 

2.目線の高さを変える

 1と重なるが、同じ場所を二度探さないためには、視線の位置を変える必要がある。具体的に言うと、立ったまま部屋をうろうろするのではなく、ときどきしゃがんで見たり、背伸びをして高いところを見たり、全身を使って探してみるのがよい。椅子に座る、床に座るというのも意外と効果がある。

 

3.絶対に、ここにはない、と思うところを探す

 案外そこにある。

 

4.探さない

 本末転倒のようだが、探しものはたいてい「いまあるほうがいいけど別になくてもいい」といった緊急性の低いものが多い。しかし、いつもはあるものがなくなると人は焦る。無駄に焦る。また、焦ってるときに探しては見つかるものも見つからないので、一度深呼吸をして落ち着くか、すっぱり探すのをやめて未来の自分に期待するのがいい。死に物狂いで探したものに限って、あとになってあっさり出てくる。あのときの疲労感は筆舌に尽くしがたい。

 

 ついでに最初からものを失くさないコツを書いてみた。

 

1.置き場所を決める。

 いらない空き缶とか、百円ショップなどで買えるカゴを置いて、そこに失くしたら困るもの、失くしやすいものを入れておく。カゴの位置は絶対に動かさないこと。

 

2.ものを置くときは目立つ場所に置く

 家に帰って気がゆるんだときにものをどこか変な場所に置くことが多い。普段の行動パターンを把握し、自分が置きやすそうな場所をあらかじめ知っておく。できれば目につきやすい場所、ものが置いてあることが目に見てわかりやすいところに置くようにする。

 

3.普段から部屋を片付けておく

 というかこれが一番重要だとおもう。部屋を片付けられないという人は残念ながらこのブログではその方法を書くことができないので、別の記事か書籍を探すことをおすすめしたい。

 

 以上、メモ代わりの文章でした。

ポリコレ棒で殴られるのは怖いが、他人を殴るのは楽しい

「ポリコレ棒で葬られるのが怖い」というタイトルがついた記事を読んで、時間差でひしひしと怒りがわいてきた。

 一言で言うと、「貴様、何様のつもりだ」と。

 要するに「自分はいままで普通に気持ちよく生きてきた。これからもそう生きたい。でもLGBTに反発するとそれができないから悲しい」という主張だ。

 そもそも「心のままに生きたい、主張したい、行動したい」と思っているのが我が侭すぎる。状況や相手を慮って発言や行動を控えるくらいできるだろう。

 そしてLGBTを理解できようができまいが、「この負の感情を正直に言うことこそが正しく、誠実である」と思っているのが読んでて鼻持ちにならない。

 Bさんは「『うち実家の花畑はキレイだなあ』と思っていたら、いきなり戦闘ヘリが飛んできて機銃掃射で荒らされる、みたいな気持ちになる」と言っているが、これは「ゲイやオカマを馬鹿にして笑い者にするのは楽しかったが、それに横槍を入れられた」ことの例えだ。

 入れるに決まってんだろ。いままで入らなかったのがおかしいんだ。

牛乳石鹸の例のCM 与えるものと与えられたもの

 ネットで話題になった牛乳石鹸の例のCM。

 批判的な声が相次ぎ、意味不明だの父親サイコパスだの殺人事件だの、散々な意見が飛び交っている。

 それはひとまず置いておいて、私が一番気になったのはフルバージョンのムービー開始1分56秒ごろから始まるこのセリフだ。

 

「親父が与えてくれたものを、俺は与えられているのかな」

 

 youtubeに公開されたWEBムービーのタイトルが「与えるもの」であることから、CM制作者が意図したテーマはここに込められていると考えるのが自然だ。

 では、「親父が与えてくれたもの」とは一体なんなのか。

 ムービーの説明文にはこう書かれている。

 

「昔気質で頑固な父親に育てられ、反面教師にすることで今の幸せを手にした彼。」

 

 つまり、「彼」は頑固だった自分の父親の生き方に否定的だったことが窺える。

 しかし「彼」は開始1分2秒で「でも、それって正しいのか」と父親と真逆の生き方を選んだ自分に疑問を持つ。

 なぜ「彼」は自分の生き方に疑問を持ったのか。

 CM内の「彼」の過去回想の場面、ムービー開始から52秒時点で、玄関から出かける父親の背中。父親の顔は見えない。58秒時点で「彼」と思しき少年がグローブを片手に壁を見つめている。おそらく、壁打ちをするつもりなのだろう。しかし視聴者には、少年だった「彼」が本当は父親とキャッチボールをしたかったことが想像できると思う。

 回想が一時中断し、大人になった「彼」は息子のプレゼントにグローブを選んでいる。きっと父親を反面教師にした「彼」は、休日には息子と公園にでかけキャッチボールをするのだろう。かつて幼い自分がそうしてほしかったように。

 家族思いの優しいパパ。「彼」は自ら望んで生き方を選び、幸せを得た。

 世間的に見ても褒められこそすれ、非難されるような生き方ではない。少なくとも、妻や息子にとっては理想的な夫で、父親であるはずだ。

 それなのになぜ、「彼」は疲れた顔で疑問を呈しているのか。

 冒頭に書いた1分56秒のセリフ。この回想場面で、少年だった「彼」は父親の背中を一生懸命に流している。自分より遥かに大きく、広い背中。父親は少年の憧憬そのものだったのだろう。真剣な手つき父親の生き方を否定する息子の姿は見られない。

 つまるところ、「彼」は自分の父親が好きだったのだ。

 仕事ばかりで家庭を顧みず、遊び相手にもなってくれない父親を憎みながら、どうしても嫌いになれなかったのだろう。むしろ、自分の生き方に絶対の自信を持った背中に、尊敬の念すら抱いていたのかもしれない。

 このCMでいう「親父が与えてくれたもの」とは、尊敬される大人の姿、目指すべき父親像といったところだろう。つまりは人生の指針である。

 しかし「彼」は、父親から与えられた指針とは真逆の姿を選んだ。CM内の言葉通り時代の流れもあるのだろう。

 自分の選択と、時代が求める父親の姿勢。どちらも子どものころ描いていた将来像とは別物だった。それに気付いた「彼」の胸中はどんなものだったのだろう。

 はっきり言っておきたいが、朝ゴミ出しをし、プレゼントとケーキのおつかいをこなし、子どもと休日に遊ぶ父親は、本当に素晴らしいと思う。

 ここで言いたいのは、子どものころ思い描いていた大人になった自分と、実際に大人になった自分のギャップによるストレスだ。大人になった「彼」は、自分の父親に見ていた、あるべき大人の姿が体現できているか不安なのだ。上司に怒られた部下を慰めたり、妻からの電話に出たりしないのは、選択によって捨てたかつての目標へのちょっとした足掻きである。

 子どもっぽい、そして遅すぎる足掻きである。しかしかつて少年だった「彼」に、少しだけ過去を思う弱さを許してもいいのではないだろうか。

 時代は移り変わり、価値観は多様化して目指すべき指針というものは実質なくなってしまった。そんな時代のなかで、「彼」は自分の息子にどんな「大人の姿」を与えられるだろう。「彼」の悩みはCMの最後になっても完全には晴れない。

 でも、とりあえず、お風呂にはいって、一日の疲れと汚れを落として、また明日。

 がんばれ、お父さん。

 

 

 というのが、CM制作者の意図なんだろうけど、ぶっちゃけ生命保険のCMとかの方が向いてると思う。

 

感情の正しい伝え方を考える

 怒りや悲しみの感情を人に伝えると、それ自体が悪いことのように反応されることがある。

 そういった場合、「私は悲しい」「私は憤っている」と伝えられた人が「自分は責められている」と感じるのが大きいように思う。

 また、「怒っている人を見たくない」「悲しんでいる人がいることを認知したくない」という他人の負の感情に引きずられたくない人もいるように感じる。

 

 では他者のヘイトをかき立てずに感情を伝えるにはどうすればいいのか。

 自分なりに考えたことを書きつらねる。

 

1.何に対して怒っているかはっきりさせる。

 まず、怒り(悲しみ)といった感情の矛先をどこに向けているかはっきりさせる必要がある。

 感情の矛先は個人や不特定多数のグループではなく、行為そのものに向けるべきだと私は考える。「罪を憎んで人を憎まず」の精神である。相手の人格を攻撃すると、相手も自分を守ろうと感情的になり双方の幸せにならない。

 「あなたが気に入らない」ではなく「あなたのこの部分、あなたがしたこの行為が気に入らない」と伝えると、相手の人格を否定することなく感情を伝えることができる。

 

2.感情を伝える理由を説明する

 私が一番大きな声で伝えたいのはここだ。

 「感情を伝える理由」と聞いて、「怒っているから」「傷ついたから」と思った人へ、

 違うと思う。

 泣いたり怒鳴ったりする行為は、相手に何かを伝えるための手段だ。

 相手に何かしてほしいことがあるから人は感情を発露する。

 自分の感情は、基本的に自分しか理解できない。自分の内側で制御できないほどの感情が膨れ上がっても、たいてい他人はその理由を、想像することすらできない。

 そして「感情の理由を伝える」とセットで言いたいのが、

 

3.相手にどうしてほしいか伝える

 である。

 人は感情に捉われると「なんでそんなことするの!」と感情を発散させるために言葉を使い、「どうしてほしいか」を伝えるのを怠っていることが多い。

 ここで面白いのが、感情を表に出すときに「なんで!」と大抵疑問形になっていることだ。

 「なんで!」と叫んでも「それは○○○だからです」と返ってくることはまずない。「なんかよくわからんけど怒ってるな」と思わせるだけである。

 「なにをしてほしいか」を相手に伝えないと、怒られた原因がいつまでもわからないので相手は同じことを繰り返す。そしてまた相手の癇に障ることをして、爆発……。

 

 まとめると、

・感情の矛先をはっきりさせる

 (相手の行為に矛先を向ける、相手の人格に矛先を向けない)

・感情の理由を伝える

 (自分がなぜ怒って、悲しんでいるかを伝える)

・相手にどうしてほしいかを伝える

 (してほしいこと、してほしくないことを具体的に伝える)

 

 上のまとめを読んで「面倒くせえ」と思った人。

 そう、私の言っていることはとても面倒くさい。

 なぜなら冷静に客観的に、自分の感情の理由を自覚し、相手に具体的に説明をしなければならないからだ。

 しかも、ムカッときたりイライラしているときに。

 自分を客観的に分析することも、相手に説明することも骨が折れて頭を使うのに、なんでこんな面倒なことを・・・・・・と思った人は多いと思う。

 ただ、人は「こうしたほうがいい理由」を知ると、意外なほどにフットワークが軽くなる。

 一度理由を伝えてしまえば、「そうしたほうがいい理由」が相手の頭に入っているので、今後説明する必要もない。(相手が忘れない限り……)

 ただただ感情のみをぶつけ合い、本当に望んでいることを伝えないまま関係が壊れ、修復不可能になってしまうのはあまりに悲しい。きちんと話し合えば、今後何十年も良好な関係が続いていたかもしれないのに。

  怒られた人に言いたいのは、怒られるということは、相手が自分に期待しているからだ。相手に向かって怒鳴ったり泣いたりするのは、自分をより理解してもらうことを相手に期待しているからだ。

「この人は私がなにを言っても変わらない」と思う相手にはなにも言わない。怒りも泣きもしない。人はやっても意味がないことをしない。しょせん「見限られた」状態である。喧嘩ができるのは、お互い話し合う余地があると無意識に考えているからだ。

 

 感情的になったときは、ほんの少しだけ深呼吸して頭を冷やしてみてほしい。コツやポイントを抑えれば、伝えたいことを正しく伝えるのは難しくない。

 

孤独は寂しいが不幸ではない

 私は一人が好きだ。

 一人で本を読むのが好きだし、一人で映画館に行くのも好きだ。人でラーメン屋に入るのも好きだ。

 一人はいい。自分の時間を自分のペースで使うことができる。行きたい場所があれば自分の都合だけで、誰かのスケジュールを気にすることなく出かけることができる。突然予定を変更して途中下車しても文句を言う人はいない。ベンチに座りなにもせずぼーっとした時間を過ごすことも可能だ。

 一人でいるのが好きだ。一人の時間が好きだ。一番落ち着くのは自分の家だが、時折家に家族がいることすら煩わしい。一人の時間がないと生きていけない。

 

「一人でいることは寂しい」という価値観が、私にはどうしても受け入れがたかった。

 一人が好きというだけで、社会から逸脱した不適合者のレッテルを貼られるのが悔しくて仕方がなかった。なにより、「一人でいるのがかわいそう」と勝手に憐れまれるのがひどく腹立たしかった。

 しかし学生時代、クラスメイトを見ても、誰もが異様なまで一人でいることを恐れているようだった。三者面談でも「友達は作ったほうがいい」「いまはよくても社会に出たら困る」などやんわりと注意を受けた。

 なぜそこまで集団でいることに重きを置くのか。一人のなにがそんなに駄目なのか、私には理解できなかった。

 私には友達がいない。恋人もいない。ほしい、作ろうかと思ったこともないといえば嘘になる。だが熱意がさっぱり続かないのだ。なんとなく寂しい、友達が欲しいと思っても一時間もすれば忘れている。次にそう思うのは三ヶ月くらい後だ。そして一時間後に忘れる。

 友達が欲しい、恋人が欲しいというより、「友達が欲しい」という感覚が欲しかった時期があった。だって、欲しくないだけで、周りから変な目で見られるのだ。

 友達がいて当たり前。そういった概念がうっとおしくて仕方がなかった。

 

 一人でいて寂しくないのか、と思う人へ。

 正直言って、一人は時々寂しい。私と同じ時間を共有して、気負わずどうでもいいことを話し、共感してくれる誰かがいれば、と思う瞬間がある。

 一人でいて楽しいのか、と思う人へ。

 正直言って、一人はすんごく楽しい。読書も、映画鑑賞も、園芸も、美術館巡りも、散歩も、小旅行も、食事も、一人でやって楽しくないことなんて一つもない。勿論、誰かと一緒でも楽しいと思う。しかしなぜ、一人だと楽しくないのか、私にはまったく理解できない。こんなに楽しいのに。

 一人は楽しい。時々寂しくなるけど、そう断言できる。

父親が老人であるということ

 父親が白いおじいちゃんに見えた話をする。

 うちの父は七十代間近で、心臓を悪くして仕事を辞めた。一時期入退院を繰り返し、呂律が回らなくなったり家族のことも分からなかったりと、脳卒中に近い症状にもなった。

 そんな父はいまでは信じられないほどぴんぴんしている。本人も親戚も「一回死んだ」と笑い話のネタにするほどの復活っぷりだった。

 そのぴんぴんしている父はいまは自治体の緑化活動に精を出し、近所の公園の花壇を手入れするのが日課になっている。もともと人と話すのが好きな父は、公園に花が増えたことで近所の人と話す機会が格段に増えた。娘の目から見ても、以前よりずっと楽しそうで、自分の人生を満喫しているように見える。

 ある晴れた日、花壇に水をやっているときのことだ。父に影響を受け立派な植物バカになった私も日常的に手入れの手伝いをする。無心でじょうろを手に水を撒いていた私は、花壇の柵の前を老人が通りかかるのを見つけた。

 地元住民の交流の活発化を目的とした緑化運動は功を奏し、私たち親子は近所の人たちに「公園の花を世話する人とその娘さん」という印象で知られている。通りすがりの人に声をかけられることも増えた。

 その老人は白いポロシャツに白い髪。第一印象が「全体的に白い人」だった。そのおじいちゃんは背を丸めてゆっくりと歩いていた。あんな人、近所にいたっけ? と考え込んだ私は二秒後に気付いた。

 あれ、うちのお父さんじゃん!

 家族や知り合いがまったくの他人に見える瞬間があるとは聞いたことがあったが、私にとってはそれが初体験で「あ、これか!」と新鮮な驚きがあった。

 まったくの他人としてみる父は、どこにでもいそうな、皺の多い日焼けした顔で、なにより、紛れもなく老人だった。

「この人はもうすぐ死にゆく人なんだ」

 自分よりずっと年老いていて、あっという間に寿命を迎えてしまう人なのだと、家族という視点を外して初めて気付いた。数年前救急車で運ばれたときから、「この人はいつ死んでもおかしくない」と覚悟していたけど、思ってもみない角度からそれを見せつけられてしまった。

 私と父は自他ともに認めるほど仲がいい。たぶん、小さい頃によく遊んでもらったり、共通の趣味を持っていたり、考え方や頭の構造が似ている部分があるからだろう。

 私は父が死にかけ、復活したときに父を病人扱いしないことに決めた。父は真面目で自立心が強く、「もし自分が痴呆になったら山の中に捨てて来い」というような人だ。

 私は、いまを楽しんでる父に自身が病気であることを意識させたくなかったし、父のことで勝手に神経をすり減らしてストレスを溜めるのも嫌だった。

 だから私は、父が病気だろうがなんだろうが、腹の立つことはしっかり伝えるし、喧嘩もするし、必要以上に気を遣わないことに決めた。勿論生きているうちにできる限りの親孝行はするつもりだ。

 ただ、それができる期間は思っていたより短いのかもしれないと思った。