軒下から雨を眺める。

ため息を言葉に。

何にしろ一生苦しむ

 なぜこんなにも人生が苦しいのか、なぜこんな苦しい思いをしてまで生きていかねばならないのか、長いこと考えていたような気がする。

 夢があった。途方もない大きな夢だった。あるとき叶わないと悟って諦めた。世の中の価値基準と自分の資質がまるで合わない気がしていた。自分はずっと異物だと感じてていた。

 考えることがころころ変わる。すぐ自信を失って一度決めたことに不安になる。取り下げて、見直して、やめて、また自信を失う。なにかするたびに、誰かに眉をひそめられているようにおもう。

 選択することが苦しい。考えることを延々くり返して、前進したような気になってもまたなにも進んでないように感じる。情報ばかり頭に取り込んで、見える景色や言葉に翻弄されて、結局一歩も動けずにいる。

 夢を諦めても、また別の夢を見つけても、すぐ手放してしまう。誰かに間違った選択をしている、となじられている気分になる。

 何を選んでも、何をしても、結局は苦しいことがたくさん襲いかかってきて、本当に楽になることはないのだと悟る。どんな選択をしても苦しむことになるなら、どれを選択しても変わりないし、きっと間違いじゃない。そうおもって、はじめて少しだけ楽になる。

アオヤマ君は本当にお姉さんを性的に搾取したのか

 アニメーション映画「ペンギン・ハイウェイ」を見た。

 率直に言って、「この映画を、ひとりでも多くの人に見てほしい」とおもうほど感動した。

 感動ついでにネットで感想を検索したら、「女性が終始モノ扱いされていて泣きたくなった」という趣旨の感想を見かけた。

 正直、少しだけこの人の気持ちがわかった。

 だが、女性である私が「ペンギン・ハイウェイ」を心から楽しみ、深く感動したのも事実である。

 「女性をモノ扱い」とは、いったいどのようなものなのか。考えてみたい。

 

 ※本編のネタバレあり

 

 ペンギン・ハイウェイを「女性をモノ扱いした映画」と感じた人は、おそらく「ペンギン・ハイウェイという映画が、男(少年)が女性のおっぱいを見て興奮することを肯定した」と感じたからだとおもう。

 この「肯定した」かどうかの点について、一部では正解だとおもう。

 アオヤマ君がお姉さんのおっぱいに魅力を感じ、隙あらば見ているのは事実である。

 ではアオヤマ君がお姉さんのおっぱいを見る行為は、お姉さんへの「加害」または「性的搾取」たりえるのか。

 「女性をモノ扱い」とはつまり、「女性を人間扱いしていない」と同義である。

 はたしてアオヤマ君は、お姉さんを人間扱いしていなかったのか。

 結論から言えば、アオヤマ君はお姉さんを人間扱いしていたとおもう。

 アオヤマ君は、ある「研究」を進めることでお姉さんに危害が及ぶ可能性を考え、研究を凍結する決意をした。たいへん頭のいいアオヤマ君が自身の知的好奇心と、お姉さんの身の安全を天秤にかけ、お姉さんを取った結果である。また、お姉さんの体と健康を気遣い、そのことを考えるあまり食事を取らない場面もある。

 だがアオヤマ君がお姉さんを心から大切におもっているからといって、おっぱいを見ることが許されている、というわけではない。

 

 お姉さんはアオヤマ君が自分のおっぱいを見ていることに気づいており、「少年、君はわたしのおっぱいばかり見ているな」と直接指摘する。それに対してアオヤマ君は「見てません」と答える。

 ここでもし、アオヤマ君が「見てます」と答えていたら、私もペンギン・ハイウェイの物語を楽しめなかったとおもう。

 ここでアオヤマ君が「見てます」と答えたら、アオヤマ君は、「おっぱいを見る行為は、見られる対象であるお姉さんに伝えてもいい事柄=お姉さんに承認されていい事柄」と考えていると解釈できる。

 アオヤマ君は「見栄っぱり」で、イジメっ子に捕まり自動販売機に縛りつけられてもすぐには助けを求めず、お姉さんととんちんかんなやり取りを交わしたあとで、ようやく小さな声で「たすけてください」というような少年である。こういった、好きな人に自分の格好わるいところを見せたくない少年が、お姉さんの指摘に「見てません」とシラを切るのは、意外と重要なポイントではないかとおもう。

 お姉さんに怒られるのがいやだった、ともとれるが、お姉さんの言い方はむしろおどけていて、また、それまでの描き方から考えても、お姉さんが少年の視線に怒り出す性格であるとは考えにくい。アオヤマ君自身が「おっぱいを見ることは恥ずかしいことだ」と認識しているからこそ、シラを切ったのだ。

 

 異性に性的な好意を抱くことが肯定された社会で、異性に性的な興味を持つなというのは現実的に不可能だろう。

 ただ、性的な興味というものは、他者に対して(とくに性的興味の対象になりうる立場の人に対して)大っぴらにしていいものではないと私は考える。好意や性欲といったものは、もっとデリケートに取り扱われてしかるべきではないか。

 

 そもそも、男性は女性が自身の肉体を勝手に見られることをこっぴどく嫌っていることを、十二分に理解しているのではないか。

 女体に興味を持つ男子を、女子は「キモイ」と言って蔑むこともあるが、逆を言えば、「キモイ」というだけで許しているのである。

 「俺たちの正常で健全な本能が、女子どもの感情で抑圧されている」というなら、なぜ「自分たちの本能と欲求が女子の健全な感情を抑圧している」と気づかないのか。

 映画の影響で、現実の少年達が女性のおっぱいを見るようになる心配はだれもしていない。心配、というより拒絶反応を引き起こした要因は、あの映画が少年たちのひと夏の青春を描いた作品であること。そしてそんな映画の中で、「女性のおっぱいを見る」行為が、きらめく夏の思い出の一コマとして表現されてしまったことだ。

 これがどれだけ女性の心を傷つけるか、SNSでの反応や感想を見る限り、男性たちが理解できているとは到底おもえない。

 フィクション、特にエンターテイメントとよばれる類の物語には、現実では叶えられない理想像がしばしば投影される。美しい街並み、個性的で愉快な仲間、立ちはだかる困難(しかしそれ相応の努力により乗り越えることができる)、やたらと身近にいる魅力ある異性、青い空、白い雲、夏の儚くも美しい、憧憬とノスタルジー

 映画「ペンギン・ハイウェイ」には、多くの人が夢見る「理想の夏」がつまっていた。その「理想」に混入された毒物が、「勝手に見られる女性のおっぱい」である。

  おもうに、「現実の少年が映画を見て云々」と考える男性は、「少年におっぱいを凝視された年上の魅力的な女性が笑って許す」というシチュエーションを、フィクションの中にしか存在しないお伽話だと勘違いしていないか。

 「ペンギン・ハイウェイ」というきらめく夏の記憶を描いた作品の中で、「お姉さんが少年がおっぱいを見ることを笑って許している」という事実そのものが、長い間女性たちが強いられてきた「男の日常的な女体の消費の承認」を象徴していると受け取れる。

 「男の日常的な女体の消費」とは、たとえば通学途中、学校指定の制服のスカートから伸びる女子高生の脚を勝手に見つめたり、ワイシャツに透ける下着に興奮したり、「とくに性的行為を行っていない、ごく日常的な生活の一場面で女性に性的な興味の視線を向けること」と、ここでは定義する。

 「おっぱいを見ることを笑って許す女性」が、男性にとって「フィクションの中にしか存在しない理想」とするなら、女性にとっては「現在進行形で強いられる、拒否することが困難な忘れたい現実」だったのだ。

 女性にとって、現実から心を離してくれる理想郷を見ようとしたら、振り払いたい、しかし振り払うのが難しい現実が混じっていた。

 このギャップが、「ペンギン・ハイウェイ」の感想を真っ二つに裂き、双方が理解し合えない要因であると私は考える。

 

 男性諸君にははっきり言って、このような視線を女性に向けるな、という話をしている。もし無理だというなら、それを公言するなと言いたい。

 もしどうしても道行く女性のおっぱいや尻や脚を見たいなら、気づかれないようにやれ、と言いたい。(もちろん盗撮は犯罪である)ただしお姉さんが気づくように、人の視線はかなりわかりやすいものなので、かなり困難だろう。あと女性がその場にいる状況での猥談もやめてほしい。

 性的興味はかくせ、誤魔化せ、アオヤマ君のようにシラを切れ、と言いたい。

 頼んでもないのに興味を女性の眼前にさらし、あまつさえ男はこういうものだから諦めろ、と承認を強要するのはやめてほしい。男性の多くが女性に性的興味を持っているのは、女性なら誰でも知っている。だが、それでも無条件に許したいものではないのだ。

 

 女性、というより立場の弱い人間は、とくに性的か否かに問わず「好意」とよばれるものから強い抑圧を受けてきた。

 どうにも「敵意」「害意」が拒否されるならともかく「善意」「好意」が拒否されることが理解できない人が、男女問わず一定数存在するようにおもわれる。「好意」というものは社会において最大の免罪符になりうる。

 アオヤマ君はお姉さんに好意を抱いており、その延長、または類似の感情としてお姉さんのおっぱいを好み、見ている。

 このアオヤマ君のお姉さんのおっぱいへの興味が所詮「好意」からくるものであるせいで、男性から見れば、女性が気持ち悪がる気持ちが理解できないらしい。(そうでない男性がいることを願う)

 だが、好意的で健全で正常で当たり前であれば、その欲求が受け入れてもらえる、というものではない。

 また、気になったのはアオヤマ君のおっぱいを見る行為を、アオヤマ君がまだ性の自覚もない少年であることを理由に擁護する意見が多く見られたことだ。

 そもそもの前提が間違っていると私は考える。

 性的に開花していない少年だろうが、成熟した大人の男性だろうが、見られる側にとって、自分の体をじろじろ見られるのは気持ち悪いのである。それが健全で正常な本能からくるものであるかどうかも関係ない。気持ち悪いものは気持ち悪いのだ。(おしっこやうんこの排泄は健全で正常なものだが、おしっこやうんこの排泄を「汚い」と感じることに似ている)

 

 映画を見る限りでは、アオヤマ君とお姉さんの間には、ある種の確固たる信頼関係が築かれていたようにおもう。恋人とも友人ともよべない、同級生でも仕事仲間でも、先生と教え子でもない、ましてや親子や姉弟ですらない、社会にたくさんある関係のどれにも当てはまらない、ひじょうに稀有な関係をアオヤマ君とお姉さんは築いている。

 この「信頼関係」の有無が、性的加害を考える上で重要なポイントになると私は考える。

 二人の間に信頼があれば、どんなことをしても性加害ではない、という意味ではない。

 たとえばセックス、キス、手を繋ぐといった、性愛がからむ他者との接触は、そういった信頼関係の築かれた間で行われればコミュニケーションのひとつだが、そういった関係性のない間で、一方的に行われなければ暴力になる、という特性がある。

 性加害の難しい点は、この信頼関係の有無が、無関係の第三者から見るとひじょうに判断がしづらい点にあるとおもう。

 婚姻関係のように書面に残して手続きするわけでもない。すべては口約束のような、ごく個人的な会話や態度によって信頼の確認は行われる。

 現状、もっとも有効な性加害、性的搾取を行わない方法は、(第三者の承認などではなく)二者の間で執り行われる「相手の意向を確認する」「性的興味をかくす」「拒否されたら潔く引き下がる」ことではないだろうか。

 この条件を照らし合わせて見ると、アオヤマ君は「お姉さんの承認を得ず、勝手におっぱいを見て」「おっぱいへの視線を一応かくしてはいるがかくしきれておらず」「明確に拒否はされていないが、かといって指摘されてもやめる気配がない」という状態である。

 

 結論を述べる。

 アオヤマ君がお姉さんのおっぱいを見る行為は、無自覚な性的搾取だったと私は考える。

 しかし、その行為と、アオヤマ君がお姉さんを大切におもう気持ちが同時に存在することはけして矛盾しない。

 ただし、お姉さんを大切におもう気持ちや、アオヤマ君がまだ少年であることが、その行為の免罪符になるわけでもない。

 

 以上である。

 

なぜ夫は働いて帰ってきているのに妻は不満だらけなのか

 「家で家事やってる専業主婦だって大変」という趣旨の記事をよく見かける。

 怨嗟の声とよぶにふさわしい言葉達を見ながら、なぜこんなにも主婦達の不満が強いのか、どうして世間や夫に対して攻撃的になるのか、一人暮らししかしたことのない人間なりに考えてみた。

 結果、「夫は会社で一定時間働いているが、主婦は寝る時間以外ずっと働いているから」という結論に達した。

 どういうことか細かく説明する。

 仮に会社で一日に八時間働く夫と、家で専業主婦を担う妻の夫婦がいるとする。

(残業時間のことを考えると話がややこしくなるので、この夫は残業なしの超ホワイト企業に勤めているものとする)

 朝、目が覚めて一日が始まる。

 会社勤めの夫は、起床して着替え、洗顔、髭剃りなどの身支度を整え、朝食をとり、持ち物をチェックし、時間通りに出勤する。満員電車にゆられ、会社に到着し、一日の仕事が始まる。

 かわって専業主婦の妻、こちらは目が覚めたのと同時に一日の仕事が始まっている。

 自身の身支度に加え、例えば夫の弁当作り、朝食の用意、かんたんな掃除、洗濯物、チラシの安売りのチェック、買い物リストの作成等々、朝はとにかくやることが多い。

 なぜやることが多いのかと言うと、家事とは時間との戦いだからだ。

・朝食は、夫が食べる時刻に合わせる必要がある。

・弁当は冷ます時間も考えて、早めに作っておく必要がある。

・洗濯物は早めに手をつけないと、あっという間に日が沈んで干せなくなる。

・スーパーの安売りなどは、午前中などの限られた時間しかやっていない場合も多いので、朝チェックする必要がある。

 おそらく、主婦の怒りがいまいちピンとこない人は、家事はやる人の好きな時間、好きなタイミングでできる、自由度の高い仕事だとおもっているかもしれない。

 まったくの誤解である。

 自分以外の家族がいる人間は、家族の生活リズムに合わせて一日のスケジュールを計算しなくてはならない。好きなときに好きな家事ができるのは、一人暮らしの人間のみである。

 また、起床したては一日の疲れが取れ、体も頭もよく動くから、できるだけ午前中にやることを済ませたいのが心情だ。主婦が朝、いつも忙しそうにしているのはこういうわけがある。

 朝九時ごろから正午、昼過ぎにかけて。

 夫は会社で働き、主婦は当然、家事をしている。この時間帯、主婦が具体的に何をしているのかは他の記事で散々、それはもうびっしりと細かい字で幾度も書かれているので、ここでは書かない。

 そのかわり、この時間帯に主婦がもし、悠々自適に自分の好きなこと、例えばテレビを見たり、趣味に打ち込んだり、昼寝したりして、家事を一切やらなかったとしたら、どんなことが起こるか書いてみた。

・風呂場がカビだらけ、水垢だらけになり、足を踏み入れると床がぬるりとするのがわかる。

・洗面所がカビだらけ、水垢だらけになり、見てわかるほど汚くなる。

・トイレがカビだらけ、水垢だらけになり、見てわかるほど汚くなる。

・床がほこりだらけ、髪の毛だらけになる。

・台所のシンクが汚れた食器と料理道具(鍋、フライパンなど)で埋まる。食事をしようにもきれいな食器がない。料理をしようにもいますぐ使える料理道具がない。

・汚れた洗濯物、もしくは畳まれてない洗濯物がうず高くたまる。当然、箪笥の引き出しの中にいますぐ着られる服はない。

・ゴミがゴミ箱にたまる。新たなゴミを入れる隙間がない。

・冷蔵庫の中から食べ物がなくなる。

 まだまだあるとおもうが、長くなりそうなので割愛する。

 家事とは、上記のことが起こるのを未然に防ぐ仕事である。

 

 そして、夕方から夜にかけて。

 一日(八時間)働いて、くたくたになって帰ってきた会社勤めの夫。スーツから部屋着に着替え、妻が作ったあたたかい食事を食べる。もう今日の仕事は終わり、嫌な上司もいなければ、しなければならない仕事も、明日までない。あとは酒でも飲んで、風呂に入って、テレビを見て、寝るだけ。一日頑張って働いた夫は、もう何もしなくてもいい。

 そうやって思う存分リラックスしている夫を横目に、主婦の仕事は寝る直前まで続く。

 夫が人目を気にせずリラックスして食べるあたたかな夕食は、妻が米の炊き出しから材料の調達、下ごしらえ、調理に至るまで、夫が帰ってくる時刻を計算した上で食卓に上っている。そうしないと、疲れてお腹を空かせた夫を長時間待たせるか、もしくは冷めた食事しか食べさせることができないからだ。

 そして食べ終わった夫が「ごちそうさま」と手を合わせ、そのままにした食器たちと台所に残った鍋類は、妻が洗い、乾かし、定位置の棚に戻され、初めてふたたび使える状態に戻る。

 夫がテレビを見ている間に、妻は料理の後始末を済ませ、台所に飛び散った水滴を拭き取り、明日の弁当の仕込をし、またくる明日に備える。人によっては昼間に別の家事でできなかった掃除を片付けたり、公共料金の請求書の整理などもしているだろう。

 夫が仕事終わりの自由な時間を楽しんでいる間も、妻は生活のために必要な仕事をこなしているのである。

 おそらくこの、「外で仕事してる夫は、家に帰ればなにもしなくていい」という開放感に対する、「妻は疲れた夫の面倒を見て当然」という不公平感が、主婦の根深い怒りの源である。

 「俺は外で働いている。疲れている」と言いたいかもしれないが、主婦だってしっかり仕事をしていて、十分疲れているのだ。

 「家事はサボろうとおもえばいくらでもサボれる」とおもうかもしれないが、サボった結果起こるのは、上に書いたとおりの薄汚いゴミ屋敷まっしぐらの惨状と、無駄な出費による家計の圧迫である。(十二分な収入があれば、もっと楽かもしれない。ハウスキーパーだって雇える)

 「そんなこといったって、俺は会社に行って仕事をしている。大変なのはお互い様だ」とおもった方もいるかもしれない。

 だが、考えてみてほしい。

 あなたは家に帰ってきて、脱いだスーツを床に置いたまま放置してはいないか。

 それがいつの間にかハンガーにかけられ、皺がつくことなく、次の日の朝に着られる状態であることに、疑問を抱かずに過ごしてはいないか。

 家に帰って、夕食を食べ終えたあと、皿を洗わなくていいことを当たり前だとはおもっていないか。

 洗濯かごに放り込んだワイシャツの襟首や袖が黄ばんだりしないのは、自分以外の誰かが、わざわざ歯ブラシで手洗いをしているおかげだということを、あなたは知っているか。

 毎日清潔な部屋で眠り、清潔な服を着て、美味しい食事が毎日食べられることを、「俺が稼いでいるおかげ」だけとは、よもやおもってはいまいか。

 働いてお金を稼ぐことは、大変だし、えらい。

 だがお金が部屋にあるだけでは、生活は成り立たないのだ。

 もし、家事疲れでイライラしている妻が家で待っている人は、はっきり言って幸運である。なぜなら、あなたの妻は家を清潔にし、できる限り生活環境を整えようと努力している人だからである。

 家事をろくにしてない主婦など、イライラのしようもない。そのかわり、仕事帰りにすぐ食べられるあたたかい食事も、水垢の落とされた風呂も、あなたを待ってはいないだろう。

 夫が一日の終わりに清潔な風呂で汗を流せるのは、昼間に妻が掃除をしたからだし、何気なくテレビを見て過ごす部屋がほこりっぽくなく気持ちがいいのは、そこも妻が掃除したからである。夫が箪笥から取り出した部屋着は、妻が夫が働いている間に洗濯をし、夕方になって部屋に取り込み、きれいにたたんで箪笥にしまわれたから、すぐに袖を通せる状態になっている。

 外で仕事をする夫と、家で家事をこなす妻。どっちが大変で、どっちがえらいか、という話ではない。生活費を稼ぐことも、家事をすることも、どちらも生活を続ける上で必要なことだからだ。

 だから「俺は仕事を頑張っているのに、家のことでガミガミ言われるのはおかしい」というスタンスはご遠慮願いたい。

 外で働くなら、家の人に協力してもらいたいし、実際してもらっているだろう。

 昼の弁当を作ってもらったり、仕事着を整えてもらったり、仕事に必要な判子や書類を探してもらったり、意識していないレベルで、様々なことを手伝ってもらってるはずだ。

 だから、仕事に行くついでに朝、ゴミ出しをしたり、夜帰ってきたら弁当箱を水につけたり、トイレットペーパーが切れているのに気づいたら補充したり、「働いて疲れている俺に対して不機嫌な嫁」に苛立つ前に、細々した小さなことを手伝ってもいいのではないか。

「会社に行って働くことだけが俺の仕事。家のことはなにもかもすべて専業主婦の妻の仕事」

 などと、厳しく線引きするより、お互いに手伝い合うほうが、ずっと幸せな結婚生活を送れるのではないだろうか。

 

質問しないで人生を損した話をする

 私は質問をするのが大嫌いである。

 原因は小学生の頃、担任が「すぐに質問せず、自分の頭で考えなさい」と発言したせいだ。担任は、話を聞いていない生徒があとから同じような質問を重ねるのに辟易していたためにそう言ったのだが、当時の馬鹿正直だった私は、その言葉をのちの人生に多大な影響を及ぼすほど、真正面から受け止めてしまった。

 いまでも質問するのが億劫でしかたない。質問をして、「こんなこともわからないのか」と怒られる自分の姿が目に浮かぶ。質問の意図が相手に伝わらないことを想像して、および腰になる。なにより、「すぐ人に質問するのは、自分の頭で考えない馬鹿の証拠だ」という呪いじみた強迫観念が、ずっと私についてまわった。

 職場でも質問が苦手で、常に「これは間違ってるんじゃないか」「ここがわからない、でも聞けない」「そもそも自分がなにをわかってないかもいまいちわからない」といったどうしようもない状況に陥った。その頃は自分の強迫観念も、その原因もなんとなくわかっていたので(認めたくなかったが)、できるだけ質問することを避けないように意識した。だがしかし、いまだに質問することが嫌いである。

 そんな私が改めて「わからないことがあったらすぐ人に質問しよう」とおもう出来事があった。

 一年前、一人暮らしを始めた私は、テレビの接続に頭を悩ませていた。もともと借りた部屋にテレビを置くつもりはなかったが、急に知人から不要なテレビを譲り受けることになり、小さなせまい一人暮らしの部屋に一台のテレビがやってきた。

 初めての一人暮らしで、手につけることのほぼすべてが初体験だった私は、テレビを見られるようにするのにはどうすればいいのかも知らなかった。

 ので、ネットで調べた。

 どうでもいいが、ネットがある環境も、私の質問嫌いに拍車をかけている気がする。

 調べた結果、集合住宅の部屋の壁には、端子をはめこむ丸い穴があるのを知った。

 が、部屋の壁をくまなく探したら、その丸い穴がなかった。あったのは見たこともない、二つ並んだ黒い小さなでっぱりだった。このでっぱりが曲者だったのだが、この時の私はそれに気づくことはなかった。

 自分が借りた部屋に丸い穴を見つけられなかった私は、さらにネットで調べた。丸い穴がないということは、この集合住宅にテレビのアンテナがないということだ。

 私は、アンテナがない環境でテレビを見る方法を調べ始めた。

 調べてわかった方法はおもに三つ。

 ひとつはアンテナを取り付けること。もうひとつはネットでテレビのオプションを契約すること。さらにもうひとつは、ケーブルテレビを契約することだった。

 どの方法も工事費用がかかったり、月額使用料がかかったりと、それなりのお金がかかる方法だった。そして見る限り、とても面倒くさそうだった。

 私は憂鬱になった。調べた結果を放り出して、テレビを見るのを諦めようとさえおもった。ネットを契約したときにいっしょにテレビのオプションをつければよかったのだが、もともとはテレビを買うつもりがなかったので断っていたのだ。

 安い給料と生活費と相談し、悩んだ末に私はネットでテレビのオプションを追加できるか聞いてみることにした。この考えはわりと最初からあったのだが、私はとにかく人に質問するのが嫌いなので、できるかぎり質問するのを避けたかったのだ。

 午前中に思いついた考えを実行に移すと決めたときには、もう午後になっていた。質問するのが嫌すぎて行動が後手に回るのが私の悪癖であった。

 だがその質問をする前に、念のためもうひとつ別の質問を管理会社にすることを決めた。ネットでテレビを見る方法を調べたときに、こんな一文があったからだ。

「借りている物件がテレビを見られる環境かどうか、一度管理会社に確認しましょう」

 確認したほうがいいとわかっていたのだが、感覚的に嫌すぎてこれも避けていた。嫌すぎて午前から午後にかけて、管理会社に問い合わせるかどうか悶々と悩むほどだった。

 なにをどうしたら、人に聞かずに物事を解決できるかを考えるのも、私の根深い悪癖だった。

 意を決して、私は自分を奮い立たせて電話をかけた。

 管理会社にはすぐ繋がった。

「もしもし、あの、ひとつ確認したいのですが、このアパートって、テレビのアンテナないですよね……?」

 すると管理会社の方は、壁にある端子の穴を写真に撮って、メールで送ってほしいと言ってきた。丸い端子の穴がないので、私は例の、黒い二つのでっぱりを写真に撮り、メールで送った。

 そうしたら、こんな返事が返ってきた。

「F端子⇔フィーダー線変換アダプタというのを使えば、大丈夫ですよー」

 正体不明の二つのでっぱり、あれがじつは、テレビのアンテナに繋がる端子だったのだ。あとでわかったことだが、築三十年近い古いアパートだったので、壁の端子もそういった古い型のものだったらしい。管理会社さんいわく、いまの家電量販店では、その変換機はもうほとんど取り扱っていないので、ネットで購入するのがおすすめとのことだった。

 私は拍子抜けした。何時間もかかって調べたネットのオプションも、ケーブルテレビの契約も、アンテナの設置も、なにひとつ必要じゃなかった。私の頭を散々悩ませた月額料金の問題も、幻の敵と戦っていたかのように無意味だった。

 電話にかかった時間はせいぜい五分。私が人に聞かずに、自分の頭で考え、調べた結果無駄にした時間は、およそ三時間。

 私は人に質問しないことで、限りある人生のうちの貴重な三時間を無駄にした。

 これほど、はじめから人に質問しなかったことを後悔したことはなかった。

 だから、私は決めた。

 もう、質問することを怖がらないと。恥ずかしがらないと。

 どんなに生理的に、なんとなく嫌でも、できるかぎりすぐ、わからないことがあったら人に聞こうと。

 これ以上、人生の時間を損してなるものかと。

 以上が、馬鹿だった私の話でした。

 この記事を読んだあなたの時間が、どうか無駄な時間ではありませんように。

 

 だが顔も名前も覚えてない小学校の担任、あんたのことだけは絶対に許さないからな。

 

 

失くしもの備忘録

 失くしたものを探すときのコツみたいなものをメモ代わりに書いてみた。

 

1.同じところを二度探さない

 これが最初にして最大のミソ。人は無意識に同じ場所を何度もくりかえし探している。自分の記憶と勘に妙な自信を持っているせいだろう。その記憶と勘が通用しなくなっているから探し物が出てこないのだが。

 

2.目線の高さを変える

 1と重なるが、同じ場所を二度探さないためには、視線の位置を変える必要がある。具体的に言うと、立ったまま部屋をうろうろするのではなく、ときどきしゃがんで見たり、背伸びをして高いところを見たり、全身を使って探してみるのがよい。椅子に座る、床に座るというのも意外と効果がある。

 

3.絶対に、ここにはない、と思うところを探す

 案外そこにある。

 

4.探さない

 本末転倒のようだが、探しものはたいてい「いまあるほうがいいけど別になくてもいい」といった緊急性の低いものが多い。しかし、いつもはあるものがなくなると人は焦る。無駄に焦る。また、焦ってるときに探しては見つかるものも見つからないので、一度深呼吸をして落ち着くか、すっぱり探すのをやめて未来の自分に期待するのがいい。死に物狂いで探したものに限って、あとになってあっさり出てくる。あのときの疲労感は筆舌に尽くしがたい。

 

 ついでに最初からものを失くさないコツを書いてみた。

 

1.置き場所を決める。

 いらない空き缶とか、百円ショップなどで買えるカゴを置いて、そこに失くしたら困るもの、失くしやすいものを入れておく。カゴの位置は絶対に動かさないこと。

 

2.ものを置くときは目立つ場所に置く

 家に帰って気がゆるんだときにものをどこか変な場所に置くことが多い。普段の行動パターンを把握し、自分が置きやすそうな場所をあらかじめ知っておく。できれば目につきやすい場所、ものが置いてあることが目に見てわかりやすいところに置くようにする。

 

3.普段から部屋を片付けておく

 というかこれが一番重要だとおもう。部屋を片付けられないという人は残念ながらこのブログではその方法を書くことができないので、別の記事か書籍を探すことをおすすめしたい。

 

 以上、メモ代わりの文章でした。

ポリコレ棒で殴られるのは怖いが、他人を殴るのは楽しい

「ポリコレ棒で葬られるのが怖い」というタイトルがついた記事を読んで、時間差でひしひしと怒りがわいてきた。

 一言で言うと、「貴様、何様のつもりだ」と。

 要するに「自分はいままで普通に気持ちよく生きてきた。これからもそう生きたい。でもLGBTに反発するとそれができないから悲しい」という主張だ。

 そもそも「心のままに生きたい、主張したい、行動したい」と思っているのが我が侭すぎる。状況や相手を慮って発言や行動を控えるくらいできるだろう。

 そしてLGBTを理解できようができまいが、「この負の感情を正直に言うことこそが正しく、誠実である」と思っているのが読んでて鼻持ちにならない。

 Bさんは「『うち実家の花畑はキレイだなあ』と思っていたら、いきなり戦闘ヘリが飛んできて機銃掃射で荒らされる、みたいな気持ちになる」と言っているが、これは「ゲイやオカマを馬鹿にして笑い者にするのは楽しかったが、それに横槍を入れられた」ことの例えだ。

 入れるに決まってんだろ。いままで入らなかったのがおかしいんだ。

牛乳石鹸の例のCM 与えるものと与えられたもの

 ネットで話題になった牛乳石鹸の例のCM。

 批判的な声が相次ぎ、意味不明だの父親サイコパスだの殺人事件だの、散々な意見が飛び交っている。

 それはひとまず置いておいて、私が一番気になったのはフルバージョンのムービー開始1分56秒ごろから始まるこのセリフだ。

 

「親父が与えてくれたものを、俺は与えられているのかな」

 

 youtubeに公開されたWEBムービーのタイトルが「与えるもの」であることから、CM制作者が意図したテーマはここに込められていると考えるのが自然だ。

 では、「親父が与えてくれたもの」とは一体なんなのか。

 ムービーの説明文にはこう書かれている。

 

「昔気質で頑固な父親に育てられ、反面教師にすることで今の幸せを手にした彼。」

 

 つまり、「彼」は頑固だった自分の父親の生き方に否定的だったことが窺える。

 しかし「彼」は開始1分2秒で「でも、それって正しいのか」と父親と真逆の生き方を選んだ自分に疑問を持つ。

 なぜ「彼」は自分の生き方に疑問を持ったのか。

 CM内の「彼」の過去回想の場面、ムービー開始から52秒時点で、玄関から出かける父親の背中。父親の顔は見えない。58秒時点で「彼」と思しき少年がグローブを片手に壁を見つめている。おそらく、壁打ちをするつもりなのだろう。しかし視聴者には、少年だった「彼」が本当は父親とキャッチボールをしたかったことが想像できると思う。

 回想が一時中断し、大人になった「彼」は息子のプレゼントにグローブを選んでいる。きっと父親を反面教師にした「彼」は、休日には息子と公園にでかけキャッチボールをするのだろう。かつて幼い自分がそうしてほしかったように。

 家族思いの優しいパパ。「彼」は自ら望んで生き方を選び、幸せを得た。

 世間的に見ても褒められこそすれ、非難されるような生き方ではない。少なくとも、妻や息子にとっては理想的な夫で、父親であるはずだ。

 それなのになぜ、「彼」は疲れた顔で疑問を呈しているのか。

 冒頭に書いた1分56秒のセリフ。この回想場面で、少年だった「彼」は父親の背中を一生懸命に流している。自分より遥かに大きく、広い背中。父親は少年の憧憬そのものだったのだろう。真剣な手つき父親の生き方を否定する息子の姿は見られない。

 つまるところ、「彼」は自分の父親が好きだったのだ。

 仕事ばかりで家庭を顧みず、遊び相手にもなってくれない父親を憎みながら、どうしても嫌いになれなかったのだろう。むしろ、自分の生き方に絶対の自信を持った背中に、尊敬の念すら抱いていたのかもしれない。

 このCMでいう「親父が与えてくれたもの」とは、尊敬される大人の姿、目指すべき父親像といったところだろう。つまりは人生の指針である。

 しかし「彼」は、父親から与えられた指針とは真逆の姿を選んだ。CM内の言葉通り時代の流れもあるのだろう。

 自分の選択と、時代が求める父親の姿勢。どちらも子どものころ描いていた将来像とは別物だった。それに気付いた「彼」の胸中はどんなものだったのだろう。

 はっきり言っておきたいが、朝ゴミ出しをし、プレゼントとケーキのおつかいをこなし、子どもと休日に遊ぶ父親は、本当に素晴らしいと思う。

 ここで言いたいのは、子どものころ思い描いていた大人になった自分と、実際に大人になった自分のギャップによるストレスだ。大人になった「彼」は、自分の父親に見ていた、あるべき大人の姿が体現できているか不安なのだ。上司に怒られた部下を慰めたり、妻からの電話に出たりしないのは、選択によって捨てたかつての目標へのちょっとした足掻きである。

 子どもっぽい、そして遅すぎる足掻きである。しかしかつて少年だった「彼」に、少しだけ過去を思う弱さを許してもいいのではないだろうか。

 時代は移り変わり、価値観は多様化して目指すべき指針というものは実質なくなってしまった。そんな時代のなかで、「彼」は自分の息子にどんな「大人の姿」を与えられるだろう。「彼」の悩みはCMの最後になっても完全には晴れない。

 でも、とりあえず、お風呂にはいって、一日の疲れと汚れを落として、また明日。

 がんばれ、お父さん。

 

 

 というのが、CM制作者の意図なんだろうけど、ぶっちゃけ生命保険のCMとかの方が向いてると思う。