軒下から雨を眺める。

ため息を言葉に。

父親が老人であるということ

 父親が白いおじいちゃんに見えた話をする。

 うちの父は七十代間近で、心臓を悪くして仕事を辞めた。一時期入退院を繰り返し、呂律が回らなくなったり家族のことも分からなかったりと、脳卒中に近い症状にもなった。

 そんな父はいまでは信じられないほどぴんぴんしている。本人も親戚も「一回死んだ」と笑い話のネタにするほどの復活っぷりだった。

 そのぴんぴんしている父はいまは自治体の緑化活動に精を出し、近所の公園の花壇を手入れするのが日課になっている。もともと人と話すのが好きな父は、公園に花が増えたことで近所の人と話す機会が格段に増えた。娘の目から見ても、以前よりずっと楽しそうで、自分の人生を満喫しているように見える。

 ある晴れた日、花壇に水をやっているときのことだ。父に影響を受け立派な植物バカになった私も日常的に手入れの手伝いをする。無心でじょうろを手に水を撒いていた私は、花壇の柵の前を老人が通りかかるのを見つけた。

 地元住民の交流の活発化を目的とした緑化運動は功を奏し、私たち親子は近所の人たちに「公園の花を世話する人とその娘さん」という印象で知られている。通りすがりの人に声をかけられることも増えた。

 その老人は白いポロシャツに白い髪。第一印象が「全体的に白い人」だった。そのおじいちゃんは背を丸めてゆっくりと歩いていた。あんな人、近所にいたっけ? と考え込んだ私は二秒後に気付いた。

 あれ、うちのお父さんじゃん!

 家族や知り合いがまったくの他人に見える瞬間があるとは聞いたことがあったが、私にとってはそれが初体験で「あ、これか!」と新鮮な驚きがあった。

 まったくの他人としてみる父は、どこにでもいそうな、皺の多い日焼けした顔で、なにより、紛れもなく老人だった。

「この人はもうすぐ死にゆく人なんだ」

 自分よりずっと年老いていて、あっという間に寿命を迎えてしまう人なのだと、家族という視点を外して初めて気付いた。数年前救急車で運ばれたときから、「この人はいつ死んでもおかしくない」と覚悟していたけど、思ってもみない角度からそれを見せつけられてしまった。

 私と父は自他ともに認めるほど仲がいい。たぶん、小さい頃によく遊んでもらったり、共通の趣味を持っていたり、考え方や頭の構造が似ている部分があるからだろう。

 私は父が死にかけ、復活したときに父を病人扱いしないことに決めた。父は真面目で自立心が強く、「もし自分が痴呆になったら山の中に捨てて来い」というような人だ。

 私は、いまを楽しんでる父に自身が病気であることを意識させたくなかったし、父のことで勝手に神経をすり減らしてストレスを溜めるのも嫌だった。

 だから私は、父が病気だろうがなんだろうが、腹の立つことはしっかり伝えるし、喧嘩もするし、必要以上に気を遣わないことに決めた。勿論生きているうちにできる限りの親孝行はするつもりだ。

 ただ、それができる期間は思っていたより短いのかもしれないと思った。